日本での暮らしはひどかった
日本で働いていた時、障がい者支援をする仕事をしているときがありました。
私の手取りの給料は正社員ながら、障がい者年金や生活保護を受給して生活している彼らよりも低い時もありました。
毎月奨学金の返済もあったので、お金が本当ににありませんでした 。
「なんこんな給料なんだろう、自分に価値はないのだろうか」
何年もこんなことを思いながらの毎日です。
職場は環境が悪く、
「うち(の会社)はタイムカードを置かない主義だ。出勤簿にハンコをおせばいいんだ。」
「上司が命令していない仕事はお前らが好きで働いているだけだから、何時間働こうが残業代は発生しない」
「現状違法になりそうなら、どうやって合法にするかを考えろ」
こんなことを毎日のように言われつづけました
私の上司は「外勤に行く」といい、昼からいなくなるような生活を何か月も続けるような女性です。
なぜか管理者はこの女上司に対して甘い。
水曜日の会議の日は午後1時から午後6時まで毎週5時間のパワハラ会議。
私にとっては会議のための会議でしかありません。
本当に私にとってはストレスでしかない職場でした。
奨学金を返済するため、仕事のストレスについて考えないようするため、仕事の後はいつもパチンコ屋に直行です。
お金に関しては必死でしたので、期待値の高い台を探して打つような生活を何年も続け、お金をかせいでどうにか奨学金を支払ったのです。
以前と比べて日々の生活で変わったこと
フィリピンで貧乏になったときは、1本130円のビールが買えず、1本200円の安いウイスキーを1週間かけて飲んだり、
一本12円の鳥の内臓の焼き鳥と25円の豚くし、それに25円のライス。
合計62円の食事で食いつないで暮らしていたときもありました。
今は以前よりもお金にゆとりがある状況になって、生活が変わりました。
・好きな時に缶ビールが飲める。
・スーパーで食べたいものを買えるようになった。
・時間効率が悪いので洗濯は自分でせず、洗濯屋さんに5日に1回、250円でお願いするようになった。
・たまに市内の韓国ストアに行き、マッコリや梅酒を買うようになった。
・あまりに暑い日には部屋でクーラーを使うようになった。
こんな感じです。
靴は相変わらず600円の偽物のクロックスがひとつだけ。
5か月に1回買い換えます。
靴下は1ペア25円のものを履いて、穴が空いたら交換しています。
服はRhaneさんが「あなが空いてるし、汚れがひどいから他の服を着てほしい」と言ってきたときだけ、安い服を彼女に選んでもらいます。
半年に一度ビザの関係でフィリピンから出なければなりませんが、他の国に行っても食べる場所はローカルマーケット、ホテルは汚くなければどこでもいいという感じです。
アパートを変えたり、停電用のバッテリーを買ったり、などなど生活に必要なものを購入しましたが、それ以外はそうでもありません。
あれだけお金が欲しかった理由は、リッチな生活ではなくて、安心して生活するためだったんだと今は思えます。
自分の生存ラインが脅かされるような状況だった時は、日本でもフィリピンでもストレスを感じていましたが、そのラインを越えてしまうと、それでもう満足です。
とりあえず最悪な状況は脱してよかった。
この状況が数年続くと、きっともっと暮らしの質を上げていくのかもしれないのでしょうが。